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この美しき世界


                       
                    

僕がただひとつ決めていたことがある。

不治の病という絶望に苛まれ、プライドも尊厳も半ばうち捨てながらも、それでもこれだけは、とそう思っていた。

それはたった一つ。

死ぬときに、泣き言だけは言うまいということだった。

世界は不条理で残酷で不平等で無意味で、僕はこの世界を到底愛してるとは言えないのだが、

辞世の言葉が恨みや泣き言ではあまりにも虚しいと思ったのだ。

それに何より。

傍らに膝をつく少女を、下がってくる重い瞼を必死で押しとどめながら、僕はそう思った。

石のように重く、地面よりも冷たく、少しも力の入らない体は、無様に地に横たわっていた。

自分の体が自分の意思をうけつけないのは慣れているが、こんな風に力が細胞の一つ一つから消滅していく感覚は初めてだった。

もはや体の大半は、僕の物ではない単なる有機物にすぎない。

そのすっかり感覚の失せた左手を、縋る様に強く握り締めながら、少女は顔を真っ赤にしていた。

顔が赤いと言っても、別に照れているとか恥らっているわけではない。

彼女はそれはもう、恥も外聞もなく、到底可愛いとは言えないくらい、

もっと正直に言えばみっともないくらい、全身全霊で泣いているのだった。

止めど無い涙がぽたぽたと幾粒も幾粒も僕の手に落ちて弾けるのが、ぼやけ始めた視界に映った。

絶対に笑うところではないのだけれど、それでも少女の真っ赤な鼻を見ていると、どうしても笑いがこみ上げてくるのだった。

だから、しぶる表情筋をなだめすかして、ようよう顔に笑みをつくる。

「――――――!」

少女は何度も、引き止めるように強く僕の名を呼んでいる。

二十数年使われていたその名は、しかし今の僕にはあまり響かない。

それよりも、どうしても彼女の名を呼びたかった。

「あ、りがと、う・・、・・・・・・」

声はがらがらに掠れていてとてもみっともない。

肝心の名前がきちんと言えたかさえ心もとなかったが、少女はきちんと聞き取ってくれたようで、僕は心底安心した。

それにしてもこんな5歳児でも言えるような簡単な文章さえのどの奥の血塊にはばまれてつっかえてしまうなんて

あまりにも情けない話だった。

しゃべろうとしたのが無理であったのか、体の奥から熱い血が口内に押し寄せて、僕は苦しさにむせいだ。

大きく咳き込んで、背筋も腹筋も酷使して、なんとか窒息を免れる。

荒い息を必死で整えれば、少女はいっそう顔を歪ませていた。

この上なく悲愴な表情なのだろうが、彼女がすると、どこかおかしい。

それは、零れ落ちる涙の一粒にさえもみなぎる、彼女の輝きのせいなのか。

とことん前向きでとことん明るくて、走る続けることの尊さを知っている少女。

少女の生き方は、煌き続ける炎のようだ。

苛烈すぎて触れられないわけではない。

風に、雨に曝されても、その熱と光を失わないのだ。

それは、少女の華奢な体の中で莫大なエネルギーを生み出し、しかも傍にいる他者にまで、その炎の恩恵に浴する事ができる。

こんな人間もいるのだと、妬みも悲しみも、諦めさえない凪いだ心で考える。

それはなんて―――。

「こ・・、は」

少女は僕ののどから零れ落ちた言葉を拾おうと、涙声で、何を言ったのかを問うてきた。

ひゅっ、と苦しい息を吸って、僕はなんとか音を紡ぎ出す。

「この、世界は・・、と、ても、ひどか・・た、けど」

思い出すのは、空一面を埋め尽くす夕焼け。

抜ける様に澄んだ強い青の秋の空。

一陣の風が吹きぬけた、ゆれる木立。

朝日にきらめくダイヤモンドダスト。

遠い日に見た、はるかな水平線。

しんしんと降り積もる雪の降る音。

太陽にすかして見た、手の中を流れ行く命。

そして―――――少女の、この泣き顔。

くしゃくしゃの、みっともない、だが、生気に溢れて眩しいこの顔が。

「と、ても・・」

そう、とても、

「う、つくし・・い、ね」

僕は最期の力で、だけど自然に、たぶん生涯最期で最高の、笑みを浮かべた。

そう、この世界はどうしようもなく残酷で、どうしようもなく、美しい―――。

だから僕は最期まで、この世界を諦めることができなかったのだ。

あらゆる理性的なものを投げ捨てて、退廃的におちてゆくことが出来なかった。

恐ろしい程の絶望と、全く逃げ道のない圧迫感に、狂いそうになりながらも、

ただ、世界のふと見せる美しさが、僕をほんの一時救っていたのだ。

徐々に視界が狭まっていく。

あぁ、僕はできただろうか。

死に際の誓いを、守れたのだろうか。

冷たい暗黒に侵されていく色彩の中で、少女は真剣に僕の言葉を聞いていた。

そして、彼女は僕の言葉が終わると、何度も何度も首を縦に振った。

はい、と泣きながら、でも、笑いながら、少女はそう言った。

「はい、とても、とても、綺麗ですね」

涙で掠れた声なのに、それはまるで心の内側に直接届けられたかのように、明瞭に聞えた。

少女の泣き笑いに、僕は大きく安堵の息を吐いた。

恨みつらみや、怨嗟の叫びは、決してこの少女を笑わせはしないから。

彼女が泣きながら、それでも笑ってくれたのは、それが少女の心に響くような、きらりと輝くものであったに違いないから。

よかったと、安心して、そして少女の笑顔に満足して、

そして、


――――――僕は静かに、優しい暗闇に身を委ねた。

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 2007,9,5
 期せずして死にネタを続けてしまいました。
 この世界には、胸をうたれるくらい美しい世界の横顔があると思います。
 そして、みっともなく、美しい生き方をする人、がいてくれるような気がします。
 それってちょっと幸せ?な気がします。